卓球 今年もよろしく
   〜「できる人」はどこがちがうのか〜
 NO.196 

2007.1.1作成

 2007年、また新しい年が始まりました。昨年は仕事が忙しく、卓球をする機会が減り、それとともに、年を取って

体が動かなくなってきましたが、気持ちだけは負けないように今年も頑張っていきたいと思っています。

 先日、「『できる人』はどこがちがうのか」(斎藤孝著)という本を読みました。卓球に限らず、「上達の秘訣」の

ヒントになる本です。その本の中から、少し紹介したいと思います。


スポーツが脳をきたえる

スポーツの深い世界

「スポーツばかりやっていると脳みそが筋肉になって使い物にならなくなる」。こんな冗談とも本気ともつかない言葉
がときおり聞かれる。たしかに運動部に入ってまったく勉強をしなければ成績は悪くなる。中学以降の勉強はとくに
蓄積が必要なので、頭の素材の良さだけでは勝負できない。運動部の雰囲気によっては、勉強や試験の話をする
こと自体がタブーで、塾へ通っていることも秘密にしなければ人間関係を維持していけないというところもある。
 世に言われる「頭の良さ」は、主に記号操作能力や言語情報処理能力に関わっている。これを身につけていない
と、せっかくスポーツで高度な感覚や認識を得ていても、それを的確に言語化して伝えることができない。しかし
言語化ができないからといって、すぐに身体感覚や認識のレベルまでが低いと決めつけるのは誤っている。
 たしかに長嶋茂雄のバッティング指導の場面を観ていると「腰をこうキュッとひねってブワーッとまわすとバット
からヒュッという高い音が出るだろ。このヒュッという高い音がいいんだ」といった類の擬音語・擬態語だらけの指導
に終始している。こうした場面をたびたび見せられると長嶋の認識能力自体を疑ってしまいがちになるが、言語に
よる説明能力と感覚・認識能力はイコールではない。
 ここで問題にしたい頭の良さとは、学校の教科のデキではなく、どのような場におかれても自分が上達する筋道
が見える力のことだ。この力は、よくわからない世界に放り出されても、仕事のやり方をまねて盗み、自分の
得意技を磨いて全体の中でのポジションをゲットしていく力である。こうした力は普遍的なものなので、どのような
フィールドでもこの普遍的な上達能力を身につけることは可能である。
 しかし、こうした上達能力自体の向上にも上達のプロセスがあるのであって、はじめからあまりに複雑な状況
(フィールド)での経験は整理しにくい。はじめのうちは、諸条件が限定された状況の方が、上達のプロセスを認識
し定式化しやすい。その後の複雑な現実における自分の闘い方を見つけていくための、いわば「箱庭的」な世界に
おける上達モデルの獲得が基礎段階としてまず必要なのである。
 スポーツは、「上達のミニチュアモデル」を獲得するのには最適である。スポーツには明確なルールがあり、現実
よりもはるかに条件が限定されている。たとえば、卓球を例にとれば、台の大きさやラケットの重さや形状、
ワンバウンドしてから打ち返すといったルールなどはすべてゲームを面白くするための限定だ。こうした諸限定に
よって、必要な技が確立されやすくなる。求められる技がはっきりすれば、その技を身につけるための練習法が
考案される。
 優れたパフォーマンスを生むためには、しっかりした技(技術)が必要であり、その技の習得のための練習を
試合とは別に行うのが効率的だ。こうした「技(技術)に対する意識」や練習法の自覚を実体験を通して身につけて
いくことは、そのスポーツの競技力以上にその後の人生にとって重要な意味を持っている。「上達の普遍的な
論理」を獲得するという点からいえば、生来の運動能力やセンスが競技力の大半を決定してしまうスポーツより
は、練習による技術の習得が競技力を左右するスポーツの方が意義が大きい。
 卓球は技術の占める割合が高いスポーツだ。サッカーも技術の必要なスポーツではあるが、ズブの素人の大人
の男が小学校低学年のチームに混じれば圧倒的な競技力を発揮する。しかし卓球となると、しっかり技術を身に
つけた子どもに素人の大人が勝つのはむしろ難しい。卓球では体格や体力以上に技術が要求されるので、技術
習得のための練習メニューに対する意識も発達している。1つ1つの技術が明確であり、その技術を持つものと
持たないものとがはっきりしている。たとえばバックハンドの横回転のサーブを打つ技術があるかないかは、誰に
とっても明らかな事実として共有できる。


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