| 将棋 「羽生」 〜「最善手」を見つけ出す思考法〜 |
NO.1499 |
2007.9.2作成
インターネットのAmazonで、『羽生 「最善手」を見つけ出す思考法』(保坂和志著)という本を以前購入したので、夏休み中、読んでみました。
羽生が最善手を見つけ出す思考法を書かれたもので、単なる将棋の本を離れ、少し違った切り口だったので、興味深く読みました。その本の中
から、ちょっと内容を紹介したいと思います。
羽生 「最善手」を見つけ出す思考法
羽生の勝負観
しかし羽生は棋士の中で最も勝つことにこだわる。
これは多くの棋士が認めるところだ。「勝利への強靭な意志」「不利な将棋でも諦めない執念」などいろいろな言葉で言われるが、要するに「勝つ
ことにこだわる」ということだ。この章をここまで読んでくると、このことは意外だと感じられるかもしれない。
しかし、羽生が勝つことにこだわることと、自戦記を「私」中心とせずに書き、対局中、自分が勝つことよりただ読むことに没頭することは、じつは
何ら矛盾しない。ただし、「勝つことにこだわる」というのは、表面的な表現であって、正しくは「最善の手順が実現されていくことにこだわる」と言う
べきなのだ。それが羽生と他の棋士との違いで、しかも決定的な違いとなっている。
将棋は、サイコロ賭博のようにツキに見離された日には”逆バリ”をした方がいいという性質のゲームではない。悪いと自覚していても最善の手順
を指すことが、すなわち将棋で勝つことなのだ。
次に引用するインタビューにもあるように、少々形勢が悪くても、羽生は最善の手順でついていく。
「最善手を指していれば、相手が何か悪い手を指したときにチャンスがめぐってくるじゃないですか。苦しまぎれの手を指していると、それによって
さらにリードを広げられてしまい、相手が1手のミスをしても追いつけないほどの差ができてしまう、ということがあるんですよ。私は1手の差だった
ら、まだ追いつける、勝負の範囲内だと思ってるんです。
―最善手を指して相手のミスを待つと。
いや、ミスを待っているわけじゃないですよ。これで負けたら仕方ないという感じでやってるんです。相手のミスを期待するのは間違ってると思い
ますよ」(「将棋世界」95年12月号)
形勢が悪いときと同じように、形勢が少しいいと思われているときでも、羽生の判断は終局間近まで「まだまだ難しい」がつづく。
実際、多くの将棋が終盤の1手の緩手や指し急ぎで逆転する。
またそれ以上に、”指しやすい”という形勢判断があっても、「では具体的にどう指すと良くなるか、わからなかった」という将棋は多い。具体的に
良くなる手順が見つからなかったら、その形勢判断の基準自体が間違っているのかもしれない。そういうことも両者が最善を尽くさなければわから
ない。どちらかがミスをしているかぎり、将棋というゲームそのものの結論は、当然、いつまでも見えてこない。
それにしても、”指しやすい―指しにくい””いい―悪い”などの形勢判断に左右されずに、つねに最善手を指そうとすることは、「第1章 棋士と
個性」で述べた、自分と相手との力量差を想定しないで指すこととも共通する態度で、きわめて強い精神力を必要とする。形勢判断を優先させて、
「不利だったから、あそこで勝負手を放ったが、ダメだった」というのは楽だ。そう考えさえすれば、もうその時点から最善の手順を考えないで済む
(その態度は、最善手でなく棋風を優先させる態度とも共通している)。
とにかく羽生の勝負観には、一気に決着がつくということがない。
マラソンで30キロを越えたあたりで、先頭を並走する2人のランナーのどちらか一方がスパートをかけるのは、「勝つため」以上に「苦しいから」
だ。走っていること自体の苦しさだけでなく、並走することの持つ苦しさから逃れたくて、結果負けることになるかもしれなくてもそこで勝負をかける
のだ。
しかし、羽生の勝負観は、自分に「苦しいから」という逃げを許さない。
苦しくても自分から勝負に出て自滅することをせずに我慢してついていく。しかも相手のミスを待つのでもない。相手が最善手を指しつづけた
場合、差はそのままつまらずに終わる。
逆に、少しいいときでも、1手の緩みで逆転されると考えて指しつづける。苦しいときの自分がピッタリ後ろについていったときのように、相手もそう
指すと考えて手を読みつづける。相手が自滅することは期待しない。まして一気に突き放す手順があることも期待しない。
羽生の読みの中では、決して一方のスパートが成功することはなく、並走するランナーがそのまま競技場にもつれこむように、両者はつねに微差
でしのぎ合いをつづける。この微差のしのぎ合いは、たとえば「勝っても負けても、プロはドラマチックな瞬間が演出できればいい」という気持ちさえ
も、逃げとして封じ込めてしまうような厳しさを持つ。
羽生とタイトル戦を戦う棋士は、しばしば終盤で信じがたい凡ミスを犯す。戦った棋士は、
「2日制のタイトル戦で、1日目の朝から羽生さんと盤を挟んで向かい合っていることから受けるプレッシャーたるやすごいもので、2日目の夕方を
過ぎるぐらいのところで、集中力がポッキリ折れてしまう…」
と言うけれど、羽生は自分自身が読むことに対してもっと厳しい。
形勢判断にも棋風にも読みの根拠を求めず、ただそれが最善であるかどうかということだけを考えて読みつづける。序盤からの指し手を頭の中で
何度も繰り返し辿り、いままでの指し手の意図を最も生かすことのできる手順を読みつづける。羽生が自分自身の読みに課している厳しさは、対局
相手が感じているプレッシャーよりもはるかに大きいはずだ。
このことは、「将棋の結論を知りたい」という知的な探究心は、「勝ちたい」「自分らしく指したい」という人ひとりの執念や願望よりも、強靱だという
ことも意味しているのかもしれない。